悪意のある視線を矢だと例える人間がいるが、雨の方が近いと私は思う。ざぁざぁと人に降り注ぐのがとても鬱陶しく体を濡らし、後日風邪を引かせる。悪意のある視線も鬱陶しく降り注ぎ、そして涙で体を濡らし、体調不良に追い込ませる。
 悪意のある視線は雨の方が近いと思う。



――She cries bitterly.
さめざめと彼女は泣く
 Rain pours down over her.




「では、次回は三月二十日に、ここで」
 一段高いところにいる、黒服の男が告げる。
「起立」
 がたり、
 その空間にいる全員が立ち上がる。
 私の依頼人は、再び廷吏に連れて行かれた。
 ふぅ、っと机の上の書類を片づけながら私はこっそりとため息をついた。
 傍聴席の方から向けられる視線がさっきから痛い。

 業務上過失致死傷。
 私の依頼人であり、今回の被告人であるAは、一月十日午前一時頃会社からの自家用車で帰宅途中に××町の交差点を走行中、隣を抜けたバイクが左折し、そのバイクと衝突。運転手Bは死亡、後ろに乗っていたBの恋人Cは重症を負った。Aは怖くなりそのまま逃走。翌日、近所の派出所に出頭した。
 検察側の言い分は、バイクが隣を抜けたときに何故ブレーキを踏まなかったのか? どうしてそのまま逃げたのか? と言った内容。
 車の隣を強引に抜け、左折したならば直進しているその車と衝突するぐらいは想定できることで、なおかつBは十五歳。無免許だった。これらのことから情状酌慮を訴えかけている。ただ、逃げてしまったことは紛れもない彼の落ち度だ。
 しかし、いくら被害者側に落ち度があったとは言え、自分の子どもを死に追いやった被告人を弁護している弁護士なんていうものは子どもの敵とは言っても過言ではないのだろう。
 ふぅ、
 もう一度ため息。
 審理中からずっと最前列で私と被告人に降り注いでいた視線。

「お前は殺人者の味方をするのか!」
 怒鳴られたのは、初公判の時。審理後のエレベーターで乗り合わせてしまった。
 怒鳴ったのはBの父親。そのまま私の胸倉を掴む。後ろの母親は止めようともしないで私を睨んでいた。
「あいつのせいで俺の息子が死んだんだ! あいつは死刑になるべきなんだ、それをお前は味方するのか!」
 怒鳴る。
 いいたいことは痛いほどよくわかる。
 だけど、過失致死罪は五年以下の懲役若しくは禁固、又は五十万円以下の罰金で死刑にはならない。なんて頭のどこか、冷静な部分の私はそう告げる。
 貴方の言い分は理不尽だ。貴方の息子は無免許でバイクに乗っていた。強引に車を抜いた。弁護士としてこんなことを言うのは間違っているかもしれない。それでも、あれは自業自得だったとも言える。
 貴方は息子が無免許でバイクに乗っているのを知らなかったのですか? 十五歳の息子が夜中に外出していることを心配じゃなかったんですか? 
 言いたくはない。こんなことは言いたくない。それでも喉元にこみあがってくる言葉。自分が息子の監督をきちんとしていなかったせいで息子が死んだとは思わないんですか?
 そんなことを言ってはいけない。被害者遺族にそんな言葉をつきつけてはいけない。わかっている。彼らはきっと十分に自分を責めているはずだ。私を責めることで軽くなるのならばそれでもいい。
 必死に自分に言い聞かせていた。
 ちん、
 音を立てて、次の階でエレベーターが止まらなければ、私はきっと口か……下手したら手を返していた。
「硯さん?」
 エレベーターを待っていた知り合いの検事が私たちをみて訝しげな声をあげる。父親は慌てて手を離した。
 私は乱れたスーツの襟元を直し、彼らに一度頭を下げるとエレベーターを降りる。待っていた検事を乗せないまま、エレベーターは下っていった。
「……誰?」
「被害者の遺族」
「絡まれてたの?」
「まぁね」
 お互いに顔を見合わせて肩をすくめた。こういうこともあるさ、とお互いに苦笑いしあった。

 そんな両親からの視線は、ずっと私に降り注いでいた。被告人ではなく、私に。そう思ったのはもしかしたら勘違いかもしれないけれども、雨のように降り注いでいた。
 書類をまとめる。
 彼らが退室するのを確認すると、一息ついた。
 鞄の中のケータイが、いつの間にかメールを受信していた。
「家にお邪魔してるから」
 簡潔な言葉に少し笑う。私は法廷を後にした。

 今日は朝から雨で、私は傘を差して歩き出した。
 ぼんぼん、とびちゃびちゃ、の中間みたいな、傘に雨があたるあの独特の音。それを聞きながら歩きつづける。
 ぴしゃ、
 撥ねた水がスーツの裾につく。
 ぴしゃ、ぴしゃ、
 水音が、頭の中で響く。

 家に帰れば、勝手にあがりこんだ恋人が待っている。
 知っていたから、あけた瞬間に香ってきたシチューの匂いに驚いたりはしなかった。たまに彼は無断であがりこんで、無断で料理を始めるから困る。合鍵を渡しているのは私だけど。
「おかえりー」
 勝手に私の部屋に置きっぱなしにしていたエプロンをして、彼は告げる。
「ただいま」
 私は玄関で言葉を返すと、びしょびしょの傘を傘たてに投げ込み、靴を脱いだ。裾が湿ったパンツスーツの裾が床につかないようにして歩きながら、リビングに向かう。
「雨が凄いわよー。もうびしょぬれで本当やってられないって感じ」
 ソファーにうつぶせに倒れこみながら私は言う。
 沈黙。
 かちゃ、
 ガスを止める音がして、彼がこちらへ歩いてきた。
「何かあった?」
 ソファーの横、私の顔辺りに座り込み、私の顔をのぞくようにして彼は呟く。何も言わなくても彼にはお見通しだ。それが少しだけ、心地よいと思う。
「ええ」
 私は微笑んで返した。
「法廷でずっと睨まれていた、被害者の家族に。私は何をしているのかしらね?」
 くすくすと笑う。
 彼の手がいたわるように私の頭を撫でた。
「今回の事件は被告人だけが悪いんじゃない。でも、被告人が百パーセント悪い事件でも私は彼らの弁護をするわ。それって、世間的には悪役の味方をする悪い奴なのよね」
 こつん、
 彼の額が私の額にぶつかる。
「ヒーローになりたいの?」
「いいえ。でも」
 私は目を閉じた。
「少し疲れた」
 雨が予想外に強くて、傘では防ぎきれなかった部分の髪が湿っている。それが鬱陶しくて片手で払った。
「何をしているのかしら? ヒーローになりたいわけじゃない。自分が必ずしも正しいことをしていると胸を張って言えるわけじゃない」
「でも」
「選んだのは私よ、知っている。私は私がやりたいからこの仕事を選んで、この仕事を続けている」
 目を開けて、彼の目を見つめた。彼が少し微笑んだ。仕事を優先するあまり、彼を蔑ろにしたことは一度や二度じゃない。それでも、彼は口先だけの文句で終わらせてくれている。
「わかっているならばそれでいい」
「うん」
「でも、わかっていてもなお、それが苦しいときもあるならば、せめて」
 そして彼は手を広げた。
「雨水を拭うタオルぐらいにはなろうか?」
 おどけて笑う。
「タオル?」
 意外な言葉に私は笑う。
「普通、この場合傘じゃない?」
 私が言うと、意外にも彼は瞳の色を深くして、滅多にしない真面目な顔をした。
「でも、傘なんて必要としていないだろう?」
「……ええ、雨に濡れる覚悟がなくて道を歩いていくことなんて出来ないわ」
 彼は微笑んだ。わかってくれるこの人が居るから、私はこの仕事をやめずにいられる。雨に濡れても家に帰ればタオルがあると知っているから、私は続けられる。黙って見守ってくれる彼だから、一緒にいられる。
 くすくすと私は笑い……、途中で耐え切れなくなって彼に抱きついた。彼が黙って私の背中をさすってくれるその手の温かさを感じながら、私は泣いた。

 夜に向かうに連れて、雨は強くなっていった。
 でも、私は暖かい家の中で、あたたかい彼の作ったシチューを飲んでいた。彼の料理の腕は、私よりもきっと優れている。
 

 三月二十日。この間と同じ法廷で、この間と同じ裁判官が告げた判決は、執行猶予つきで、嬉しそうな私の依頼人をみて、私も少し微笑んだ。ああ、だからこの仕事をやめられない。
 傍聴席から向けられる視線は冷たくても、家に帰ればタオルがある。濡れた体はタオルで拭いて、熱いシャワーでも浴びればいい。
 だから私は、決然と前を見据えていた。

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