夏の来客

言い訳することは好まない。
好まないが、あえて言わせてもらうならば、この暑さがいけないのだと思う。
このうだるような暑さのせいで、昨日の夜は上手く寝付けなくて、
(私の部屋にはクーラーなどという文明の利器は存在しない)
さすがに、朝はどこか涼しくてぼんやりしていたら、そのまま転寝してしまった。
それの何処が責められよう?
起きてみたら、午後2時45分で、バイトが今日は午後3時からだったとして、
「……」
目覚めてからそのことを理解するまでに時間を要した私を誰が責められよう?
否。
誰が責めなくても、自分で責めなくてはいけないのだ。

「ああ、私の馬鹿っ!」
慌てて鞄を掴み、家の戸締りを始める。
こんなときに限って家には誰も居ない。
窓を閉めて、ガスの元栓を締めて、
ほかに何かなかったか、ざっと部屋を見回して、
何も無いだろうという結論に達するとそのまま家を飛び出した。
勿論、カギをかけるのは忘れずに。
普段乗らない自転車をひっぱりだし、そのまま勢いよく漕ぎ出す。
ああ、お願い間に合って。
そんなことを思いながら走っていたので、非は十分に私にあっただろう。
「あ」
角を曲がった瞬間、同じように角を曲がってきた女性とぶつかった。
ばん、
「っ!」
やばいやばいやばいやばい。
思考が飛びそうになる。
ああだってそんな慰謝料損害賠償ああ。
そんな言葉が頭を駆け巡る。
「うー」
幸いにしてその女性は起き上がってきた。
ああ、良かった。良くないけど。
「あ、あの、すみません!大丈夫ですか!!
自転車を乗り捨てて、慌てて駆け寄る
「あ、大丈夫ですよ」
スーツ姿のその女性は、笑いながら立ち上がってそういう。
見た目大丈夫なことに少し安心した
「すみません!急いでて」
そう言って頭を下げる。
ああ、どうしよう慰謝料損害賠償治療費請求。
確かこういうのって後遺症の治療費も請求されるのよね、ああ。
「いえ、それはこちらも一緒だから
そんなに謝られても」
女性は人のよさそうな顔でそういう。
いい人そうでよかったと思いながら、顔をあげて、
その女性のスーツの襟元についたバッジに目を奪われる。
だって、それは。
「ご、ごめんなさい」
私が言葉を紡ぐよりも早く、
「私急いでるんでこれで。
すみません、本当」
早口にそういって、頭をさげて、その女性は走り去ってしまった。
そんな謝られても悪いのは私のほうだし。
そうでなくても自転車と歩行者ならば過失は自転車にあるとみなされるわけだし。
閑話休題
「……弁護士さん?」
襟元のあのバッジは、確かに弁護士バッジで、
追いかけて、話を聞きたい衝動に駆られる。
しかしながら、確かにあの人に話を聞きたいが、
それよりも私には重要なことがあって、
「っ、やばいもう50分っ!」
自転車に再び飛び乗ると、ペダルを漕ぎ出した。
……今度は人に気をつけて。

 *

「珍しいね、新條さんが遅れそうになるなんて」
例の恋愛沙汰でやめた店長の代わりに新しくきた店長はそう言って笑った。
彼がここにきて、まだ2ヶ月だけれども、
この人のよさそうな笑顔で皆に好かれている。
つまり、私が知っているバイトの人は皆、ということだけれども。
「ええ、色々有りまして」
それだけいうと、荷物を置いて更衣室のカギをとると、更衣室まで走った。
今日はノーメイクだけれども、しょうがない。
せめてインする前に顔だけ洗っておこう。

 *

「いらっしゃいませ」
慣れとは恐ろしいもので、あれだけ先ほどまでばたばたしていたのに
私はにこやかにお客様に対してそう言った。
喫茶店の癖に、セルフサービスという形態をとっているこの店では、
レジカウンターで先に注文をしてもらう。
入ってきたお客さんは、20代後半ぐらいの女の人で、顔立ちの整った人だった。
彼女は肩までの髪の毛を揺らしながら入ってきて、
「アイスコーヒー」
メニューを軽く一瞥しただけで、そう言った。
「アイスコーヒー、280円になります」
毎度のことながら、ぼったくりだよなぁという値段を提示する。
彼女は会計を済ませると、奥の方の席に座る。
座ってからこちらに目をやり、
「禁煙ですか?」
「そちらのお席は喫煙席です」
それを聞いて彼女は満足そうに笑い、煙草に火をつけた。
お客さんは彼女のほかに常連が2人いるだけ。
とても静かな時間。

――。
自動ドアがあく、あの音ともいえない音がして、私はそちらに目を向ける。
けれども、そこには誰も居なかった。
「やだ、またなの?」
一緒に入っていた先輩がそういう。
「ええ」
最近、よくある。
誰も居ないのに自動ドアが開くということが。
「センサー、壊れちゃったのかしら?
店長に直してもらうように、やっぱり言っておこう」
先輩はそう言うと、事務所のほうへ歩いていく。
ふと、先ほどの女性に目を向けると、煙草を灰皿に押し付けて、席を立っていた。
「ごちそうさま」
そういって半分ほどしか手のつけていないコーヒーと、
まだ長い煙草の乗った灰皿を返却口までもってくる。
「恐れ入ります。
ありがとうございました」
そう言うと、彼女はふっと笑い、
何故か誰も居ない席に目をやり、何かを掴むかのように手を伸ばす。
一瞬、そんな意味のわからない動作をした後、
肩までの髪を揺らしながら出て行った。
「……ちょっと変な人ね」
何時の間に戻ってきたのか、先輩がそう呟いた。
たしかに。
私は軽く苦笑する。
そして、また自動ドアが開く。
今度は確かにお客様がいて、私は笑みを浮かべると言った。

「いらっしゃいませ」

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